「平成論」の一文から考える ———日本は言論自由の社会であろうか?

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  「平成論」の一文から考える

      ———日本は言論自由の社会であろうか?

 最近、「平成論」というNHK出版新書を読んでいて、その中の上田紀行氏が述べた一句に胸に響いた。

 その文は、 

 新自由主義の「自由」とは、人の「支え」を外しておいて経済的な利得の追求だけ自由にやりましょうという、「支え」のない「自由」なのです。

  まず、新自由主義は何かをここで簡単に説明すると、規制や政府の関与を最小化にして、民間自ら自由に経済活動を行うとのこと。

 なので、新自由主義と個人責任の間に切り離せない関係を持っている。政府が民間企業や個人の競争に介入していない分、すべての経済活動に自ら参加している張本人が自分の行動に全責任を背負わなければなりません。これは資本主義の世界です。この誰でも自由に経済活動する権利があって、その努力によって貧富の格差が生じる。お金持ちはどんどん膨らんできた財産を抱えてさらに投資活動に励んでもっと膨大な財産を手に入れる。勿論、それと真逆で一夜明けたら何も残らず、人生に絶望するほど莫大な借金を抱えてしまう人もいる。すべて自分の意思で決めたことで自分が選んだ道なので、結果はどうのこうの他人のせいにできない。このような経済利益を取得する際に、自由に競争して度胸がある人は自分の手で自ら運命を変えていく。

 社会主義の国家で育てられた自分から見れば、比較的に平等に夢を追える社会であると思いますが、同時に、全く個人責任という放任主義は自由と裏腹に不安と何かあった時の無気力感も付きものです。まさに上田紀行氏が述べたような「支えのない自由」といえるでしょう。

 日本は中国と違って何でも自由に発言できる言論自由の社会だよと日本に来てからよく自慢げに聞かされるが、本当にそうなんですか?

 上司の顔色を伺いながら恐る恐る行動している日本人、人に嫌われるのを恐れて全く本当の自分をさらけ出せない日本人、人の気持ちを忖度して自分の意見や感情を飲み込む日本人、人に迷惑をかけるのを遠慮してしっかり距離を取る日本人、何もかも「普通」を求めて自分の本心を隠す日本人、黙々と沢山の無形の枠にはめられている日本人。これらを見れば、とても自由とは思えません。

 よく日本のドラマにも描かれているシーンがある。会社のある決定に理不尽を感じ、それに対してムッとする新人さんに向かって、「お前は未だこの会社にいたかったら黙ってろ」と怒鳴る上司の姿。このような圧力を耐えてまで自分の将来を守るしかないという無気力感が見えた。しかし、何か反抗したら上が決めた事実を覆すこともできないし、下手すれば生計を立てるツールも失うことになる。こういう強権や経済的な圧力による自由の制限。

 また、最も日本人らしいと言われる同調圧力。他人と同じような行動をとるように無形な圧力がかけられている。学生時代も少人数のゼミであるアジェンダに関して先生に自由討論を命じられて、盛り上がる様子がなく、いつも活躍している何人かの学生だけが積極的に自分の意見を述べて、そのままこの特定の何人の意見は最終結論になりそうな時に、先生が見ていられなくなって、皆彼らと同じ意見だよねとずっと無言でいた残りの30人強の学生に向かって確認してもシーンとなっただけ。それで、先生が質問を変えて、Aさんの意見に賛成している方手を挙げてと発問したら、最初の何秒はシーンしたままで、一人手を上げる学生が現れたらやっと他の学生たちものろのろと手を上げ始めた。Bさんの意見に賛成している方?と質問を繰り返したら、先程と同じ状況が再現した。確認が終った後に、未だ手を挙げていない学生がかなりいたので、先生がまた別の意見があるかと聞いたら、人の意見に賛成しないが、自分の意見を表に出さない学生が沢山いた。最初交換留学の時に、本当にびっくりした。多数の意見に圧倒されているか思考能力が欠けているだけだったか分からないが、サークルにも全く意見を言わない日本人の学生が多々いた。

 自分の意見を言わない理由は同調圧力のせいなのかただ怠けていて口を利きたくないだけなのか、どちらにしても自分の意見や主張を控えている事実は変わらない。

 いくら言論自由の環境にいるとしても、目に見えない圧力を受け、自由に行動できない或いは積極的に自分が思っていることを話さないのはこの環境を無駄にし、ある意味で言論自由ではなかろうかと思います。

 何事でも「忖度」という名目で自分の本当のやりたいことや思っていることを我慢する社会とある類の内容だけ(例えば政治?)がタブーで他のを全部自由にしてよい社会はどちらは生きやすいかな?